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石碑の上のLの文字の周りにはLIONS INTERNATIONALと書かれています。
石碑には台湾台南市古都国際獅子会と書かれているので、台湾と関係があるみたいです。
島津久光公像の右側につつじが植えられています。
島津久光は島津家第27代斉興の第5子としいて文化14年(1817)鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。
第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。
文久2年(1962年)、斉彬の遺志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。
江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件がおこりました。
その後、公武合体運動を進めますが、思うように進まず、ついに倒幕へと向かいます。
明治以降になると、明治6年(1873年)に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳との対立もあり、明治8年(1875年)には辞任して鹿児島へ帰郷し鶴丸城二の丸に入りました。
しかし西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。西南戦争後は、二の丸も焼けたため、第27代斉興が建てた玉里邸を再建して隠居。晩年は歴史書編纂に努めました。
明治20年(1887年)に70歳で病没し、国葬により福昌寺墓地に葬られました。
この際に玉里邸の黒門から国道までの新しい道路がつくられましたが、この道路は「国葬道路」と呼ばれていま
す。(現地案内板より)

島津久光公像
http://kagoshima.pmiyazaki.com/douzou/s_hisamitu/
島津忠義公像の奥には手すりと階段があり、上る事が出来るみたいです。
島津忠義は天保11年(1840年)島津久光の長男として生まれました。
島津家第28代斉彬の遺言によって斉彬の娘と結婚、薩摩藩主となり、祖父の斉興、父の久光の補佐を受けながら、藩政改革と陸海軍の充実に努めました。
文久2年(1862年)の久光の率兵上京、藩政改革、生麦事件、薩英戦争には藩をあげて行動するとともに、薩英戦争後イギリスとの関係改善を図り、五代友厚などの使節団や留学生を派遣して人材育成を図るとともに、日本最初の紡績工場をつくるなど、集成館事業の充実に努めました。
明治維新後には、長州藩、土佐藩、佐賀藩などと共に、進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事
後に貴族院議員となります。
明治30年(1897年)、58歳で没しますが、父・久光と同様に国葬が行われました。(現地案内板より)

島津忠義公の銅像
http://kagoshima.pmiyazaki.com/douzou/s_tadayoshi/

照国神社(てるくにじんじゃ)
http://www.yado.co.jp/kankou/kagosima/kagosi/terukuni/terukuni.htm

薩摩藩・鹿児島編(8)
http://yaplog.jp/bakumatsusanpo/archive/109
古びた建物がありました。
入り口には南国らしくソテツが植えられていて、建物の説明書きがありましたが、古びた建物には近付きませんでした。
水路のそこは大きな石が敷き詰められていました。
やったのだと思うのですが、水路に鯉のエサが浮いていました。
鯉がいました。
照國神社の入り口には白い大きな鳥居がありました。
照國神社は名君の誉れ高い、第28代薩摩藩主・島津斉彬公を祭った神社です。
境内には斉彬公の功績を紹介した資料館もありましたが、行きませんでした。
神社に隣接する探勝園は、島津家の庭園だった所です。
探勝園は、日本発の電信実験を行った場所でもあります。

照國神社
http://www.terukunijinja.jp/

探勝園
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/database/category
/shiseki/area_central/tenmonkan/_34819.html

http://www.ryoko.info/kagoshima/024k
agos.htm

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