忍者ブログ
[1398] [1397] [1396] [1395] [1394] [1393] [1392] [1391] [1390] [1389] [1388
カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
カテゴリー
最新コメント
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索
アクセス解析
島津久光公像の右側につつじが植えられています。
島津久光は島津家第27代斉興の第5子としいて文化14年(1817)鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。
第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。
文久2年(1962年)、斉彬の遺志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。
江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件がおこりました。
その後、公武合体運動を進めますが、思うように進まず、ついに倒幕へと向かいます。
明治以降になると、明治6年(1873年)に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳との対立もあり、明治8年(1875年)には辞任して鹿児島へ帰郷し鶴丸城二の丸に入りました。
しかし西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。西南戦争後は、二の丸も焼けたため、第27代斉興が建てた玉里邸を再建して隠居。晩年は歴史書編纂に努めました。
明治20年(1887年)に70歳で病没し、国葬により福昌寺墓地に葬られました。
この際に玉里邸の黒門から国道までの新しい道路がつくられましたが、この道路は「国葬道路」と呼ばれていま
す。(現地案内板より)

島津久光公像
http://kagoshima.pmiyazaki.com/douzou/s_hisamitu/
PR
この記事にコメントする
name
title
color
mail
URL
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
secret (チェックを入れると管理人だけに表示できます)
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
Powered by Ninja Blog    template by Temp* factory    icon by MiniaureType

忍者ブログ [PR]