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若き薩摩の群像は鹿児島中央駅の近くにありました。
若き薩摩の群像の中央の物体は椅子か机の上に本が載っているようにも見えますし、椅子か机の下には剣のような物があります。
若き薩摩の群像はアミュプラザ鹿児島の観覧車側から撮りました。
若き薩摩の群像はダイエー側にも像があり、中央に若き薩摩の群像というプレートがあります。
左側のダイエーの1階はミスタードーナツで、右側は鹿児島銀行があります。
若き薩摩の群像は鹿児島市の玄関口・鹿児島中央駅へ降り立つと、江戸時代の末期に国禁を犯して海外留学を果たし、日本の近代化のために尽力した薩摩藩の青年藩士17人の銅像「若き薩摩の群像」が観光客を出迎えてくれます。
昭和57年3月に建てられました。高さが12.1m(台座部分9.49m)あり、中村晋也氏によって制作されています。
若き薩摩の群像は案内板の写真には19人ですが、この像には17人の若者がいます。
実際には、市当局も当初は留学生19人全員を入れた建設を計画していたようですが、途中で急遽17人にすることに計画変更がなされたようです。
若き薩摩の群像から除外されたのは高見弥一と堀孝之という方達です。
若き薩摩の群像から除外された理由は2人が薩摩藩出身ではないというからという事ですが、この2人も留学をされました。
若き薩摩の群像は1982年に鹿児島市が人口50万都市になったのを記念し、モニュメント「若き薩摩の群像」を建立しました。
若き薩摩の群像に除外された2人を加える運動もあります。
高見弥一は土佐人で、のちに中等学校の教員になり、堀孝之は長崎人で一行の通訳でした。
若き薩摩の群像の最年少(数え14歳)で英国に渡った長沢鼎さんは、その後、日本ではなく米国に渡り、23歳でブドウ園を持ち、その後、郡の長にもなり、ワイン王となったようです。

若き薩摩の群像
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/database/category/rekishi/history/_28028.html
http://tabimap.chesuto.jp/e32869.html

薩摩藩の郷中教育とボーイスカウト運動
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/personal8.htm

若き薩摩の群像たち
http://blog.livedoor.jp/ota416/archives/51843492.html

若き薩摩の群像を完成させる会
http://www2.tky.3web.ne.jp/~kirino/
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少し見え辛いですが、奥に建物が見えます。
右奥には石段が見えます。
少しジャングルっぽい雰囲気です。


暖かくなるみたいです。
石碑の上のLの文字の周りにはLIONS INTERNATIONALと書かれています。
石碑には台湾台南市古都国際獅子会と書かれているので、台湾と関係があるみたいです。
島津久光公像の右側につつじが植えられています。
島津久光は島津家第27代斉興の第5子としいて文化14年(1817)鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。
第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。
文久2年(1962年)、斉彬の遺志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。
江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件がおこりました。
その後、公武合体運動を進めますが、思うように進まず、ついに倒幕へと向かいます。
明治以降になると、明治6年(1873年)に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳との対立もあり、明治8年(1875年)には辞任して鹿児島へ帰郷し鶴丸城二の丸に入りました。
しかし西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。西南戦争後は、二の丸も焼けたため、第27代斉興が建てた玉里邸を再建して隠居。晩年は歴史書編纂に努めました。
明治20年(1887年)に70歳で病没し、国葬により福昌寺墓地に葬られました。
この際に玉里邸の黒門から国道までの新しい道路がつくられましたが、この道路は「国葬道路」と呼ばれていま
す。(現地案内板より)

島津久光公像
http://kagoshima.pmiyazaki.com/douzou/s_hisamitu/
島津忠義公像の奥には手すりと階段があり、上る事が出来るみたいです。
島津忠義は天保11年(1840年)島津久光の長男として生まれました。
島津家第28代斉彬の遺言によって斉彬の娘と結婚、薩摩藩主となり、祖父の斉興、父の久光の補佐を受けながら、藩政改革と陸海軍の充実に努めました。
文久2年(1862年)の久光の率兵上京、藩政改革、生麦事件、薩英戦争には藩をあげて行動するとともに、薩英戦争後イギリスとの関係改善を図り、五代友厚などの使節団や留学生を派遣して人材育成を図るとともに、日本最初の紡績工場をつくるなど、集成館事業の充実に努めました。
明治維新後には、長州藩、土佐藩、佐賀藩などと共に、進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事
後に貴族院議員となります。
明治30年(1897年)、58歳で没しますが、父・久光と同様に国葬が行われました。(現地案内板より)

島津忠義公の銅像
http://kagoshima.pmiyazaki.com/douzou/s_tadayoshi/

照国神社(てるくにじんじゃ)
http://www.yado.co.jp/kankou/kagosima/kagosi/terukuni/terukuni.htm

薩摩藩・鹿児島編(8)
http://yaplog.jp/bakumatsusanpo/archive/109
古びた建物がありました。
入り口には南国らしくソテツが植えられていて、建物の説明書きがありましたが、古びた建物には近付きませんでした。
水路のそこは大きな石が敷き詰められていました。
やったのだと思うのですが、水路に鯉のエサが浮いていました。
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