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特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~に行きました。
日比谷公園には幼稚園の頃に何回か行っていて、イベントか何かで小さいSLが走っていたり、アイススケートのスケートリンクがありました。
有楽町には何回か行く事はありますが、日比谷公園に行く機会はありませんでした。
ですので日比谷公園にいくのはとても久し振りでした。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~は思っていたよりも混んでいました。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~の会場は期間限定なのでエアコンがいくつか設置されていましたが、少し寒かったです。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~の会場に入るとレオナルド・ダ・ヴィンチの年表があり、更に少し進とモナ・リザの顔が特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~のナビゲーターだからなのか黒柳徹子になっていて、黒柳徹子が喋っていました。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~ではモナ・リザ25の秘密のほかにレオナルド・ダ・ヴィンチが残したメモをもとに機械を再現していました。
飛行機を再現したヘリコプターの原形のような空気スクリューという物や鳥の飛行を応用した飛行機(後になってレオナルド・ダ・ヴィンチは人間の筋力では飛行が不可能だと気が付きましたが)、パラシュートを再現した物もありました。
2000年にパラシュートを再現した物を使ったイギリス人がいました。
レオナルド・ダ・ヴィンチが残したメモをもとに再現した機械はたいてい触れませんでしたが、いくつか触って動かす事が出来る物もありました。
クランクという取っ手を回すと下の玉も回転する物などが触る事が出来ました。(私は夫が説明してくれましたがクランクというものがいまいちよく分かりませんでした)
ほかには車輪が1回転する毎に玉を1つずつ落として進んだ距離を測る機械が興味深かったです。(同じような機械が古代ローマにもありましたが、レオナルド・ダ・ヴィンチが改良しました)
ほかには潜水服に酸素ボンベを繋げた物やマシンガンみたいな物、戦車、レオナルド・ダ・ヴィンチの生まれ故郷の90歳の職人がレオナルド・ダ・ヴィンチのメモをもとに作った半永久的に動く時計が展示されていました。
ほかにははずみ車(フライホイール)という物があり、回転速度を均一にして、運動の維持に必要な力を減少させ、揺れや間欠圧力が加わる時には軸の回転を安定させるのに役立ちます。
自然界に存在する黄金比(確か1:1.68位だったと思います)がダ・ヴィンチ・コードにも出て来た古代ローマの建築家のウィトルウィウスの名前から取ったウィトルウィウス的人体図に使われていて、パルテノン神殿にも使われています。(白銀比というものもあり、確か1:1.5位だったと思います。)
自分の体が黄金比に近いかどうかを調べる事が出来る機械があり、自分の体のおへその位置に黄金比に近いかどうかを調べられる機械を巻き、目の前のウィトルウィウス的人体図と同じポーズを取ると自分の体が黄金比に近いかどうかを調べる事が出来、自分の体が黄金比に近いとあなたの体が黄金比に近いですというメッセージが表示されます。
自分の体が黄金比に近いかどうかを調べる事が出来る機械に人が並んでいましたが、私はやりませんでした。
ほかには最後の晩餐の実物大の復元がありました。
モナ・リザは今は黄色っぽくくすんでいますが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた当時のモナ・リザを防弾ケース、額からも外して2億4000万画素の高解像度カメラで撮影して再現すると鮮やかなモナ・リザになりました。
再現されたモナ・リザの後ろの板も再現されていて、板が割れていて、修復された跡がありました。
なぜモナ・リザに眉毛やまつ毛が無いのか、当時の女性は眉毛の一部を抜く事はあったが、まつ毛を抜く事は有り得ない、再現されたモナ・リザには眉毛とまつ毛があったとか枯れていましたが、私はいまいち良く分かりませんでした。
モナ・リザはナポレオンの浴槽に飾られた事もあり、その時に付いたしみがあります。
モナ・リザのモデルは誰なのか、ジョコンダ夫人という説が有力だが、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身だという説を取り上げたビデオが流れていました。
モナ・リザは1920年代に盗難事件があり、パブロ・ピカソも重要参考人として警察から事情徴収を受けました。
真犯人はイタリア人の修復工で、犯行の動機はモナ・リザを祖国に返したかったからだということです。
1850年代には青年がモナ・リザに石を投げ付けるという事件がありました。
それ以来、モナ・リザは2億4000万画素の高解像度カメラで撮影する迄防弾ケースから出される事もなく、モナ・リザを防弾ケース越しでしか見る事が出来なくなりました。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~の会場を出ると、お土産やさんがあり、レオナルド・ダ・ヴィンチが残したメモをもとに再現した機のミニチュアやマグネットなどが売られていましたが、特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~が2/20迄立ったので値引きされていました。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~の会場に喫茶店が併設されていましたがそこには行かず、東京国際フォーラムの喫茶店に行きました。
私はケーキ、夫はスパゲッティを食べました。
日比谷公園に噴水がありました。
日比谷公園に着いたのが遅かったのですが、9時迄開いていました。
特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~は2/20迄やっていました。

特別展ダ・ヴィンチ~モナ・リザ25の秘密~
http://www.davinci-japan.com/
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霧ヶ峰式鷹7号グライダー(電建号)が大き過ぎたので遠くから撮っても全部入り切りませんでした。
空と宇宙展を十分に見る事が出来ず、閉館が5時半だったので最後の方はちゃんと見る事が出来ませんでした。
少し見え辛いですが霧ヶ峰式鷹7号グライダー(電建号)と書かれています。
小惑星探査機はやぶさの実物大の模型です。
はやぶさの実物大の模型は大き過ぎて遠くから撮らないと全部入り切りませんでした。
小惑星イトカワの上に隼が乗っている模型もありました。
イトカワの上のハヤブサは小さかったです。
1945年8月15日、敗戦を迎えた日本はGHQの占領下に入り、航空禁止令が布告され、あらゆる航空研究が禁止されましたが、1957年に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除となりました。
少し前まで利用されていたYS-11という戦後初の国産旅客機が説明されているビデオが流れていて、模型も展示されていました。
次世代型の旅客機の説明のビデオも流れていました。
ペンシルロケットや、日本初の人工衛星おおすみの紹介がされていました。
H-ⅡロケットやH-ⅡAロケット、H-ⅡBロケットの紹介もされていました。
H-ⅡロケットやH-ⅡAロケット、H-ⅡBロケットと言えば種子島です。
今はイカロスという太陽光を利用したヨットのような船が宇宙を飛んでいて、イカロスの説明がされているビデオも流れていました。
イカロスの1/20の模型も展示されていましたが、かなり大きかったです。
イカロスに使われているヨットのような帆の部分に使われている素材が展示されていて実際に触る事が出来ました。
イカロスに使われているヨットのような帆の部分に使われている素材は金色の薄いアルミ箔みたいでした。
金星探索機のあかつきの紹介もされていましたが、少し前に金星の軌道に乗るのに失敗したからなのか、あかつきの説明が少し修正されていました。
今度金星の軌道に乗るチャンスは6年後位だったと思います。
ほかにもライト式複葉機(手彩色写真)やアンリ・ファルマン複葉機(手彩色写真)、ハンス・グラーデ単葉機(手彩色写真)などの写真もありました。
奈良原式4号機「鳳号」の上に「鳳」という文字が書かれた旗が見えます。
上野の国立科学博物館でやっていた空と宇宙展に行きました。
空と宇宙展というので日本を含めた世界の飛行機や宇宙開発の歴史だと思っていたので私はスプートニクやライカ犬、ヴォストークやヴォストークに乗っていたガガーリン、アポロやアポロの月面着陸に関する展示もされているのかと思っていたのですが、日本の飛行機や宇宙開発の歴史がメインでした。
しかし、最初の 方の展示に紅毛雑話という、天明7年(1787年)に書かれた西洋のの事情が書かれた本にはオランダのリユクトスロープ、リユクトバルという飛行船や気球に関する記事や図が飛行の器として紹介されていました。
1782年にフランスのモンゴルフィエ兄弟が気球の打ち上げに成功しました。
明治10年に西南戦争が勃発した時に熊本城が薩摩軍に包囲されたので連絡を取る為に陸軍が実用気球の開発を依頼しました。
工部大学校(後の東京帝国大学)学生だった明治の高名な学者の志田林三郎と高峰譲吉が気球を開発しました。
陸軍と海軍でも気球を開発し、陸軍では伝統音楽音階研究で名高い上原六四郎が中心となって気球を開発しました。
上原六四郎の写真と上原六四郎への陸軍士官学校気球の開発命令書の書簡が展示されていました。
明治時代の気球飛行の図という版画がありました。
二宮忠八(1866-1936)は早くから空に興味を持ち、鳥型飛行器を開発し、後に飛行作業で殉職された方達の為に京都府八幡市に飛行神社というものを建てました。
二宮忠八はカラスやタマムシなど「自然」に学び、鳥型飛行器と玉虫型飛行器の研究をしました。
鳥型模型飛行器(複製)と玉虫型模型飛行器と二宮忠八の写真と書簡が展示されていました。
玉虫型模型飛行器の操縦席には分かりやすいようにか、人形まで乗っていました。
1903年12月17日、ライト兄弟が初めての有人動力飛行を成功させました。
日本では 臨時軍用気球研究会では、東京帝国大学工学部の卒業生など、飛行機開発に知識を持った人材を集め、積極的に海外に留学させるなど、外国の知識の貪欲な吸収を試みました。なかでも研究会委員であり、フランスとドイツに留学した徳川好敏、日野熊蔵の2名の陸軍大尉は、航空機の研究開発に深く関わるとともに、1910年の日本初飛行のパイロットを務めました。
徳川好敏はフランス製のアンリ・ファルマン複葉機に、日野熊蔵はドイツ製のハンス・グラーデ単葉機に搭乗し、それぞれ国内初の飛行に成功しました。
日野熊蔵は何回か飛行機の開発に携わっていました。
徳川好敏という方も何回か飛行機の開発に挑戦していますが、残念ながら失敗に終わっていますが日本の飛行機の開発の歴史に貢献しました。
ハンス・グラーデ機やアンリ・ファルマンなどのプロペラも展示されていて、実際に動いていました。
エンジンも展示されていました。
日本の名機がいくつか展示されていて、そのうちの一つの奈良原式4号機「鳳号」の模型が展示されていました。
奈良原式4号機「鳳号」の模型の横にOTORIという文字が見えます。
空と宇宙展は2/6までやっていました。

空と宇宙展
http://sora-uchu.jp/
計画停電が実施されました。

懐中電灯は置いていませんでした。
懐中電灯はスーバーや100円ショップでも売り切れていました。
地震の家具転倒防止グッズだけが売り切れていました。
電池は売れていましたが、まだ残っていました。
家の懐中電灯が点かなかったので壊れていると思って新しい懐中電灯を買おうと思いましたが、壊れていると思っていた懐中電灯の電池を交換し、電池の向きを2つ共+極を下向きにしたら点きました。
新しい懐中電灯を買わなくて良かったです。
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